2021年05月18日

命をいただいているわけではない

前回の
「血のあるままで食べてはならない」の
続きである。

よく、
「私たちは、
他の動物などの肉を食べています。
つまり、
他の命をいただいているのです。
感謝しましょう」
などと、もっともらしく
言われているが、
とんでもない間違いである。

動物などに感謝するのは良い。
しかし、
人間が他の命を食べることは、
神様はお許しになってはいない。

ノアの時の洪水以降、
地から生える植物は
ますますその栄養価を失い
(エデンの園では植物だけで
生きていけたことを参照)
もはや、動物の肉を食べなければ、
人間は生きていけなくなった。

しかし、それは
創造の最初からあったことではない。
そのため、
神様は重要な命令を
人間に与えられたのである。

それは、
自分が生きるために
他の命を取ってはならない、
ということである。

人間に
その肉を食べられる動物などは、
実際、結果的には
人間に命を取られることになるが、
それでも、神様は
命である血液を
じゅうぶんに流しきって
「単なる物質的な肉」にしてから
食べるように命じられた。

その理由は、
人間が自分が生きるために
結果的には
他の生き物の命を
取るようなことになったことを通して、
同じように
自分が生きるために
他の人間の命を
取るということを肯定しないように
するためなのである。

そのため、前回にも書いたが、
血のあるままで食べてはならない、
という命令に続いて、
人を殺してはならない
という御言葉を
語られたのである。

このことを知らずに
「人間は、生きるために
他の命を取らねばならない」
という目に見える現実から、
その取らねばならない命の範囲を、
動物などから他の人間にまで広げてしまい、
自分が生きるに当たって
不都合に思える人を殺す、
ということが後を絶たないのである。

いじめや対人関係のトラブルも
みな、このことを知らないために
起こることであり、
神様の前では殺人に等しいのである。


thisisthehour624 at 12:50|Permalink

2021年05月16日

血のあるままで食べてはならない

「しかし、肉は、
そのいのちである血のあるままで
食べてはならない」
(『創世記』9章4節)

身体は母親の胎内ですべて完成される。
生まれてからの成長は、
その各細胞が細胞分裂をして
増えていくだけである。

そして、そのような生命活動は、
血の循環によって行なわれる。
血がなかったら、
細胞分裂もなく
生命活動そのものもない。

つまり、血=命なのである。
血のあるままで食べる、
ということは、すなわち、
動物の肉ではなく、
その命を食べることなのである。

神様は、人間が動物の肉を
食べることは許されたが、
動物であっても
命を食べることは
許されなかった。

このことは、
人間の命と
その肉体との関係を
教えているのである。

生きている人間の肉体には
魂が宿っているが、
肉体が死んだら
魂は肉体を離れる。
その魂がまだ宿っているか
すでに離れているかは、
血が循環しているかいないかで
明らかになる。
つまり、血のある状態とは
まだその肉体が生きている、
ということなのである。

したがって
血のあるままで食べてはならない
ということは、
動物の肉を食べる、
ということを通して、
神様がお造りになった魂を
何人であっても
損ねてはならない、 
つまり、
人を殺してはならない、
ということを表わしているのである。

その証拠に
この御言葉に続く
5節と6節には
文字通り、
人を殺してはならない、
という内容であり、
食べ物の内容でなくなっている。

このことを知らずに、表面的に
血のままで食べない、
ということを守っても
意味がないのである。


(注:
では、脳死状態はどうか、
ということであるが、
脳死とは、
現代医学の力で
人為的に血の循環を
保たせている状態のことであり、
自然の状態で脳死になれば、
間もなく血の循環も
なくなるのであるから、
聖書解釈においては
考える必要はない。)

thisisthehour624 at 13:28|Permalink