2021年06月15日

どんなに苦しまねばならないか

「しかし、主はこう言われた。
「行きなさい。
あの人はわたしの名を、
異邦人、王たち、
イスラエルの子孫の前に運ぶ、
わたしの選びの器です。
彼がわたしの名のために、
どんなに苦しまなければならないかを、
わたしは彼に示すつもりです。」
(『使徒の働き』9章15節〜16節)


パウロ(サウロ)が
天からの光によって倒され、
3日間、目も見えなくなった時、
神様はアナニヤという人を
彼に遣わしたが、
その時、神様はアナニヤに
上に引用したように語られた。


しかし、普通に考えれば、
「イエス・キリストを信じることは、
どれくらい幸いなことなのか、
わたしは彼に示すつもりです」
というような御言葉が
語れるはずであろう。


ところが、
神様はまるで真逆な内容、
すなわち、
わたしの名のために、
どんなに苦しまなければならないか」

と語られた。


これはあんまりではないか。


確かに、パウロはこの後、
福音のために、
尋常ではない苦しみの中を
歩むこととなる。
彼自身、
「何というひどい迫害に
私は耐えて来たことでしょう」
(『Ⅱテモテ」3章11節)
と言っているほどである。


しかし、それでも
パウロは
救われたことに対して、
後悔するようなことは
一言も語っておらず、
もちろん、
そのようなことを
微塵も考えなかったことは
明らかである。


これは次元の違いである。


救われた喜びと祝福は、
この世のどのようなことによっても、
絶対に揺り動かされることはない。


もし、救われたことを
少しでも後悔する人がいるなら、
その人は本当には救われていないのだ。
これは間違いない。


神様は、パウロに
これから彼に起こることを
単に伝えようとされたに過ぎない。
それは、彼の救いには、
全く影響を与えないことなのだ。


救いとは、
そのようなものである。



thisisthehour624 at 13:10|Permalink

2021年05月25日

懺悔文の意味


「懺悔文(さんげもん)」という

経典の一節がある。
『華厳経』(けごんきょう)の
一節であるが、
宗派を問わず、用いられている。


意味は
一見すると、
過去の悪い行ないなどを懺悔して、
心新たに修行に励みます、
と読むことができる。 



全文は以下の通り。

我昔所造諸悪業

(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡
(かいゆうむしとんじんち)
従身語意之所生
(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔
(いっさいがこんかいさんげ)

これで思い出すのが、
比叡山で修行していた時のことである。
夜が明けたばかりの
まだ薄暗い中、夏とはいえ
張り詰めたような冷たい空気が漂う
西塔(さいとう)の釈迦堂の前。
これから止観(しかん=座禅)を
するための入堂前に
この「懺悔文」を唱えるのである。


こんな場面は、
なかなか、映画のワンシーンにでも
なりそうな「厳粛」な雰囲気が
あるのであろうが、
しかし毎回、私の心は冷めていた。


「こんな経文を唱えただけで、
過去がチャラになるなら
誰も苦労はしない‥‥」


あれ以来、
この「懺悔文」には
見向きもしなかった。


しかし今回、ふとしたことから
この「懺悔文」を見て、
このところ悟ったことなどと相まって、
この経文は、ものすごく
奥深いことを語っていることに
気づいたのである。


ひとつひとつ見ていくと、
まず「我昔所造諸悪業」とあるが、
これは、自分が過去に
さまざまな悪業を積み重ねてきた
ということの告白である。
「業」であるから、
今の一生に限らず、
アダムとエバの時から始まり、
ノアの時の洪水を経た、
魂(たましい)としての自分を
省みているのである。


次に「皆由無始貪瞋癡」であるが、
その業はみな、
貪(とん・むさぼり)
瞋(じん・怒り)
癡(ち・真理を知らないこと)

から来ている、という告白である。
これはみな、
自分というものが
絶対的存在だという認識から生じる。
神様だけが絶対的存在である。
人間、つまり各人の魂は、
相対的な存在であり、
実体がない。
この真理を知らないために、
自分中心に物事を貪り、
自分に少しでも害となるものには
怒りを発するのである。

次は「従身語意之所生」であるが、
それらの悪業は、誰のせいでもなく、
この自分自身から出たものだ、
ということを認める。
これは救いの基礎である。
そこに少しでも言い訳や
他のせいにする心があるなら、
絶対に救いは来ない。


最後は「一切我今皆懺悔」であるが、
ここで重要なことは、
「今」ということである。
救いは、方向転換である。
今まで、ひたすら、
業を積み重ねて来た
魂の道の方向を
百八十度方向転換して、
これからは、その業を
消滅させていく方向に
進むということである。
そしてその進む先には、
絶対的な神様の御国がある。
また、その方向転換は、
一生に一度である。
一度方向転換したならば、
二度と方向転換する必要はない。
その方向転換が、「今」であり、
救いの時なのである。
もし、そのようにして
方向転換した者が
またこの「懺悔文」を
唱えるならば、
それは「救いの確認」
ということになる。


ここにきて、
私が悟った真理をもって、
過去に唱えていた経文などを読むと、
そこにも驚くべき宝石を
見出すのである。


thisisthehour624 at 13:39|Permalink

2021年05月23日

宗教と医学の融合

正しい宗教ならば、
医学と融合するはずである。

「熱心な」信者が、
「この病は祈りによって治す。
薬もいらない」などと
言っているのを
聞いたことがあるが、
それは大きな誤りである。

医学は肉体が専門分野であり、
宗教は魂が専門分野であり、
互いにぶつかることはない。

人間は魂である。
その肉体は魂の道具である。 

腕のいい職人が
道具を大切にするように、
魂は肉体を大切にすべきである。
そのため、大いに医学に
委ねる時は委ねるのである。

thisisthehour624 at 10:03|Permalink