2022年05月08日

ただ神様なんだな

私は、高校生の頃から、
「自分は何で生きているのか」と
悩み始めた。

まわりの人たちを見ても、
そんな悩みをかかえている人などいなかった。
「そうだよね〜何で生きているんだかね〜」
などと話せる友だちなど全くいなかったし、
いそうにもなかった。

自分の夢を追いかけて生きるんだ、とか、
愛する人のために生きるんだ、とか、
そんな声はうるさいほど世に満ちている。
しかし私はそんなことには、
なぜか心を動かされなかった。

また、「何で生きているのかだって?
そんなことを考える余裕なんかない、
こっちは毎日生きるだけで必死だ、
そもそもそんなこと考えるのは、
余裕があるお坊ちゃんだからだ」と、
そんな声にならない声も
聞こえてくる気がした。

そして私は27歳の時、
イエス様を信じ救われ、
神様の存在が疑いようもなく
信じられるようになった。
これは私の頭で考えたのではなく、
完全に宗教的体験だった。

ではそれで、
何で生きているのかという答えを
得たかと言うと、
確かに私は神様のために
生きているんだ、ということを
理屈では認めざるを得なかった。
神様がいらっしゃるのだから、
その神様を差し置いて、
それ以外のことを第一になど
できるわけがない、という
理屈からだった。

だからそんな理屈は、
私の疑問の答えにはならなかった。

つまり、体験的な答えではなかったのだ。

しかし、この立派なおっさんの年齢になり、
ようやく、その答えを体験的に得た。

その答えとは、
なぜ私が「何で生きているのか」
ということで悩んでいたのか、
という原因についてだった。

つまり、答えとしては、
確かに27歳の時に得ていた。
神様のために生きている、
ということは理屈的に正解である。

問題だったのは、
なぜ私が、何で生きているのか、
ということで悩んでいたのか、
ということだったのである。

なんと私は最初から、
自分を中心に生きることはおかしい、
と、気づいていたのだ。

だから、
自分の夢を追いかけるだの、
自分の愛する人のために生きるだの、
そんな、最初から自分を前提とした
生きる目標などに、
心が動かされなかったのだ。

ではなぜ私は最初から、
自分を中心に生きることはおかしい、
と思っていたのだろうか。

それは全くわからない。

まさに、神様から植え付けられたもの
としか言いようがない。

ということは、
私はそのような悩みのゆえに、
救われたのだから、
救いはやはり、
神様が救おうとされた者が
救われるのだとしか言いようがない。

では、救おうとされない人は、
救われないのか、
ということに対して私は、
「たぶん神様はすべての人が
救われることを願われているはずだよ」
としか言いようがない。

すべての主権は神様にあるのだから、
「私は神様のために生きている」
という理屈的な正解も、
本当の答えではない気がする。

そもそも私などいない気がする。
ただ、神様なんだな。


thisisthehour624 at 04:37|Permalink

2022年05月07日

神様ご自身のため

イエス様を信じて救われた者は、
それからの人生では、
神様がいかに素晴らしいお方であるかを
表現する日々を送ることを
神様は願われている。

しかし、さらに正確に言うなら、
そのような人生が用意されているのだ。
神様のご栄光を表わすように
「させられる」のである。

言い方は少し変だが、
神様もせっかく御子を十字架につけてまで
救った者であるから、
ただその者の肉の命を長らえるため、
ただその者の家族を養うためだけに
生きてもらっては困るのである。
そこは全知全能なる神様である、
その者が神様を表現する道を歩むよう、
その道をあらかじめ用意されるのだ。

だから、救われた者は心配するより、
神様の表現のことを求めて、
その道も用意されているという望みをもって
生きるべきである。

それはその者のためというより、
神様ご自身のためなのである。



thisisthehour624 at 22:57|Permalink

2022年04月26日

どう生きるべきか

「どう生きるべきか」
という根本的な問題には、
まず、天地万物を造られた
絶対的な神様を知らなければならない。
それも頭で考えるのではなく
神様を体験的に知らねばならない。

なぜなら、神様を知らず、
ただ人間の次元だけで
どう生きるべきか、と考えれば、
まず性別も違えば、
国も民族もそれぞれで、
時代によっても大きな違いがあり、
各個人の性格も違い、
そのようなところから出される結論は、
まさに千差万別となってしまう。
また、どう生きるべきか、などと
考える余裕もない、という人もいるはずで、
そして、そのような考えさえ、
どう生きるべきかの結論の一つとなる。

まず、
絶対者である神様を信じることが
最初である。
私はそれを、
イエス様を信じ救われる、
ということで体験した。
絶対的神様はいらっしゃる。

では、その次に、
どうしたらいいのだろうか。

すでに、同じ神様を信じるという
人々が集まった組織には、
既存の教えがあり、
そしてその教えも、
その組織と個人によって
やはり千差万別だ。

これでは、
ひとつの拠りどころとなる教えが
何であるのかがわからない。

私は救われて、32年間、
この問題に悩んで来たと言える。

そしてようやく、
ここ数年で、その答えを見出した。

それは、人間側から
神様を見上げるのではなく、
神様が今自分に
何を求めておられるのかを知る、
ということだった。

神様であるはずのない自分が、
なぜそれがわかるのか。

わかるのである。
神様を信じ救われた者には
聖霊が下されているからだ。

別に、聖霊に満たされるなどという
特別な状態にならなくてもいい。
今、神様は、この私に
何を求めておられるのだろうか、
と考えさえすれば、
すぐに答えは見つかる。

具体的には、それも
個人個人で千差万別であるが、
共通点がある。
それは、今の私を通して、
神様が表現される、
ということである。

神様がなぜ天地万物を造られたのか。
それは、それら被造物を通して、
神様が表現されるためである。

したがって、
その具体的なことは、
各個人に委ねられているが、
それぞれ、神様を表現さえすれば、
それが、
どう生きるべきかの答えとなる、
ということであり、
その答えは必ず正解なのである。

「わたしの名で呼ばれる
すべての者は、
わたしの栄光のために、
わたしがこれを創造し、
これを形造り、
これを造った」
(『イザヤ』43章7節)




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