2022年04月24日
宗教が最も陥ってはならない状態とは
宗教の人々が最も
やってはならないこと、
それは、
「これさえやっていれば、
それでよい」とすること。
ほぼ、それは儀式だ。
ある儀式さえ続けていれば、
それでよしとすることは、
宗教が陥ってはならない
唯一のことである。
儀式と名付けられなくても、
とにかく形式的なことを
繰り返しているならば、
それでよいとされることは、
すべてこれに当てはまる。
たとえそれが、
それを続けることが
人間的に大変な労力が
必要なことであっても、
とにかく中身がどうであれ、
続けていれば
よしとされることはすべて、
宗教の本来の姿から
外れたものなのだ。
わかりやすく
具体的に記すと、
批判中傷の言葉と
読まれてしまうので
書くことはできない。
真理を体験し、
形式などどうであれ、
その真理を伝えること、
それが真実の宗教だ。
やってはならないこと、
それは、
「これさえやっていれば、
それでよい」とすること。
ほぼ、それは儀式だ。
ある儀式さえ続けていれば、
それでよしとすることは、
宗教が陥ってはならない
唯一のことである。
儀式と名付けられなくても、
とにかく形式的なことを
繰り返しているならば、
それでよいとされることは、
すべてこれに当てはまる。
たとえそれが、
それを続けることが
人間的に大変な労力が
必要なことであっても、
とにかく中身がどうであれ、
続けていれば
よしとされることはすべて、
宗教の本来の姿から
外れたものなのだ。
わかりやすく
具体的に記すと、
批判中傷の言葉と
読まれてしまうので
書くことはできない。
真理を体験し、
形式などどうであれ、
その真理を伝えること、
それが真実の宗教だ。
thisisthehour624 at 06:51|Permalink
2022年04月23日
わたしは新しい事をする
もし今、
「キリスト教の集会を開いてはいけない」と、
キリスト教だけにこのような規制が出されたら、
キリスト教会は、
「これは迫害だ。祈ろう!」と、
かえって一致団結をして、
神様を力強く求めたことだろう。
しかし、実際にほぼ、
このような規制が出されたと同じように、
集会は開くことができなくなっているとはいえ、
全世界のすべての人々に
同じように与えられた規制であるため、
迫害だとは思わない。
そして、確かに迫害などではない。
では、この現状を
キリスト教会はどう受け止めているのだろうか。
集会が開けないなどとは、
神様のみこころなわけがない。
かと言って、
キリスト教にターゲットを絞った
悪魔サタンの攻撃とも思えない、という、
中途半端な、そして、
やるせない思いに浸っているに違いない。
つまり、ここから、何も生じないのである。
以前は、集会にどれくらい人が集まるだろうか、
より多くの人々が集まるように祈ろう、
ということであったが、
もうその集会自体が開けないのである。
今は多少規制が緩んできているが、
この現状で集会を持ったとしても、
多く人が集まることは避けねばならず、
また多くの人が来るはずがない。
間違いなくもう以前のようには戻らない。
数年たったとしても戻るわけがない。
集まってクラスターになることの恐ろしさが
人々の意識に深く刻まれたからである。
このようなことは、人類史上なかった。
ではなぜこのようになったのだろうか。
ほとんどのキリスト教会が
次のように考えることは避けているはずである。
「これは神様のみこころだ」と。
しかし、真実はそうなのである。
それは神様が新しいことを
起こそうとされているからであり、
そのためにまず、以前のものを
すべて消し去っておられるのである。
「先の事どもを思い出すな。
昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている」
(『イザヤ』43章18~19節)
既存の教会では、
以前のことも正しいと確信しているので、
神様が「それを思い出すな」とは
おっしゃるはずがない、ということで、
神様が新しいことをされるために、
以前のことができなくなっているということは、
絶対に受け入れないであろう。
しかし、
とにかく信じていようが
信じていまいが洗礼を授け、
とにかく、ひとつでも席がうまっていれば、
それで十分満足だとする「以前のこと」は
間違っていたのである。
間違っていることをまず取り除けることが、
新しいことが行なわれる前段階であることは、
余りにも言うまでもないことである。
「キリスト教の集会を開いてはいけない」と、
キリスト教だけにこのような規制が出されたら、
キリスト教会は、
「これは迫害だ。祈ろう!」と、
かえって一致団結をして、
神様を力強く求めたことだろう。
しかし、実際にほぼ、
このような規制が出されたと同じように、
集会は開くことができなくなっているとはいえ、
全世界のすべての人々に
同じように与えられた規制であるため、
迫害だとは思わない。
そして、確かに迫害などではない。
では、この現状を
キリスト教会はどう受け止めているのだろうか。
集会が開けないなどとは、
神様のみこころなわけがない。
かと言って、
キリスト教にターゲットを絞った
悪魔サタンの攻撃とも思えない、という、
中途半端な、そして、
やるせない思いに浸っているに違いない。
つまり、ここから、何も生じないのである。
以前は、集会にどれくらい人が集まるだろうか、
より多くの人々が集まるように祈ろう、
ということであったが、
もうその集会自体が開けないのである。
今は多少規制が緩んできているが、
この現状で集会を持ったとしても、
多く人が集まることは避けねばならず、
また多くの人が来るはずがない。
間違いなくもう以前のようには戻らない。
数年たったとしても戻るわけがない。
集まってクラスターになることの恐ろしさが
人々の意識に深く刻まれたからである。
このようなことは、人類史上なかった。
ではなぜこのようになったのだろうか。
ほとんどのキリスト教会が
次のように考えることは避けているはずである。
「これは神様のみこころだ」と。
しかし、真実はそうなのである。
それは神様が新しいことを
起こそうとされているからであり、
そのためにまず、以前のものを
すべて消し去っておられるのである。
「先の事どもを思い出すな。
昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている」
(『イザヤ』43章18~19節)
既存の教会では、
以前のことも正しいと確信しているので、
神様が「それを思い出すな」とは
おっしゃるはずがない、ということで、
神様が新しいことをされるために、
以前のことができなくなっているということは、
絶対に受け入れないであろう。
しかし、
とにかく信じていようが
信じていまいが洗礼を授け、
とにかく、ひとつでも席がうまっていれば、
それで十分満足だとする「以前のこと」は
間違っていたのである。
間違っていることをまず取り除けることが、
新しいことが行なわれる前段階であることは、
余りにも言うまでもないことである。
thisisthehour624 at 08:09|Permalink
2022年02月13日
比叡山三面大黒天縁由 現代語訳
比叡山三面大黒天縁由
当山大黒堂に安置されている本尊は、五十代天皇桓武天皇の比叡山草創の当初、開山である伝教大師を招いての根本中堂落慶の頃、大師は一人の神人が微笑みながら立っているところに会った。大師は「あなたは誰ですか」と問うと、「あまねく衆生を利し、みな苦を離れて安穏の楽、世間の楽、および涅槃の楽を得せしむ」と『法華経』の一句を答えとして唱えた。大師はこれをもって考えるに、世間の苦を救い、福徳寿命を授け、未来の利益も与えられるとは、すなわちこれ大黒天であると知り、その時、霊の目で感得した尊像を自ら彫刻して、今の堂宇に安置した。大黒天、毘沙門天、弁才天の三体合体の霊像であられる。この三面大黒天は誓願を立て「我を知る者、我が名を唱える者、我が教えを受け、行じる者には、富貴財宝、男女の召使、美しく立派な車、馬、五穀を得させ、その願いにすべて応えよう。もしこの誓願が虚偽となるなら、天王にはならない」と誓われた。この尊天を信じ祈願するならば、禍が転じて福となるという霊験に浴することができると広く世間の人々が知るようになり、各宗派の祖師たちも、この天を崇拝し信じ、宗門の繁栄を祈った。願わくば、自他共にこの尊天を祈念し、福徳自在の宝蔵を開いて、慈悲の田に福の種を栽培し、あまねくすべてに及ぼさんことを。
thisisthehour624 at 23:39|Permalink