2021年06月16日
絶対ということ
神様は絶対者である。
神様だけが実在者である。
このようなことを言うと、
「では、他の宗教の神々とか、
仏様とか菩薩とか、
みんな嘘だ、
誤りの神だと言うのですね」
などと言われそうである。
しかし、そのように思ったり
言ったりすること自体、
「絶対」ということを
知らない証拠である。
絶対は絶対である。
つまり、相対するものがない、
ということである。
自分の信じる神様だけが真実であり、
その他の信仰の対象となるものは
嘘だ、偽りだとすることは、
そもそも、その「神様」と
「他の信仰の対象」とを相対させ、
比較していることであり、
そうすること自体が、
神様は絶対だということを
否定していることなのである。
神様は絶対だ、とすることは、
むしろ、他のすべてを認めることであり、
受け入れることなのだ。
私はこのことを悟ったが、
今までこのようなことは
一度も聞いたことがない。
このようなことを知ってさえすれば、
正しい宗教同士の摩擦や争いなど
起こり得ないのである。
神様だけが実在者である。
このようなことを言うと、
「では、他の宗教の神々とか、
仏様とか菩薩とか、
みんな嘘だ、
誤りの神だと言うのですね」
などと言われそうである。
しかし、そのように思ったり
言ったりすること自体、
「絶対」ということを
知らない証拠である。
絶対は絶対である。
つまり、相対するものがない、
ということである。
自分の信じる神様だけが真実であり、
その他の信仰の対象となるものは
嘘だ、偽りだとすることは、
そもそも、その「神様」と
「他の信仰の対象」とを相対させ、
比較していることであり、
そうすること自体が、
神様は絶対だということを
否定していることなのである。
神様は絶対だ、とすることは、
むしろ、他のすべてを認めることであり、
受け入れることなのだ。
私はこのことを悟ったが、
今までこのようなことは
一度も聞いたことがない。
このようなことを知ってさえすれば、
正しい宗教同士の摩擦や争いなど
起こり得ないのである。
thisisthehour624 at 07:38|Permalink
2021年05月23日
宗教と医学の融合
正しい宗教ならば、
医学と融合するはずである。
「熱心な」信者が、
「この病は祈りによって治す。
薬もいらない」などと
言っているのを
聞いたことがあるが、
それは大きな誤りである。
医学は肉体が専門分野であり、
宗教は魂が専門分野であり、
互いにぶつかることはない。
人間は魂である。
その肉体は魂の道具である。
腕のいい職人が
道具を大切にするように、
魂は肉体を大切にすべきである。
そのため、大いに医学に
委ねる時は委ねるのである。
医学と融合するはずである。
「熱心な」信者が、
「この病は祈りによって治す。
薬もいらない」などと
言っているのを
聞いたことがあるが、
それは大きな誤りである。
医学は肉体が専門分野であり、
宗教は魂が専門分野であり、
互いにぶつかることはない。
人間は魂である。
その肉体は魂の道具である。
腕のいい職人が
道具を大切にするように、
魂は肉体を大切にすべきである。
そのため、大いに医学に
委ねる時は委ねるのである。
thisisthehour624 at 10:03|Permalink
2021年05月18日
命をいただいているわけではない
前回の
「血のあるままで食べてはならない」の
続きである。
よく、
「私たちは、
他の動物などの肉を食べています。
つまり、
他の命をいただいているのです。
感謝しましょう」
などと、もっともらしく
言われているが、
とんでもない間違いである。
動物などに感謝するのは良い。
しかし、
人間が他の命を食べることは、
神様はお許しになってはいない。
ノアの時の洪水以降、
地から生える植物は
ますますその栄養価を失い
(エデンの園では植物だけで
生きていけたことを参照)
もはや、動物の肉を食べなければ、
人間は生きていけなくなった。
しかし、それは
創造の最初からあったことではない。
そのため、
神様は重要な命令を
人間に与えられたのである。
それは、
自分が生きるために
他の命を取ってはならない、
ということである。
人間に
その肉を食べられる動物などは、
実際、結果的には
人間に命を取られることになるが、
それでも、神様は
命である血液を
じゅうぶんに流しきって
「単なる物質的な肉」にしてから
食べるように命じられた。
その理由は、
人間が自分が生きるために
結果的には
他の生き物の命を
取るようなことになったことを通して、
同じように
自分が生きるために
他の人間の命を
取るということを肯定しないように
するためなのである。
そのため、前回にも書いたが、
血のあるままで食べてはならない、
という命令に続いて、
人を殺してはならない
という御言葉を
語られたのである。
このことを知らずに
「人間は、生きるために
他の命を取らねばならない」
という目に見える現実から、
その取らねばならない命の範囲を、
動物などから他の人間にまで広げてしまい、
自分が生きるに当たって
不都合に思える人を殺す、
ということが後を絶たないのである。
いじめや対人関係のトラブルも
みな、このことを知らないために
起こることであり、
神様の前では殺人に等しいのである。
「血のあるままで食べてはならない」の
続きである。
よく、
「私たちは、
他の動物などの肉を食べています。
つまり、
他の命をいただいているのです。
感謝しましょう」
などと、もっともらしく
言われているが、
とんでもない間違いである。
動物などに感謝するのは良い。
しかし、
人間が他の命を食べることは、
神様はお許しになってはいない。
ノアの時の洪水以降、
地から生える植物は
ますますその栄養価を失い
(エデンの園では植物だけで
生きていけたことを参照)
もはや、動物の肉を食べなければ、
人間は生きていけなくなった。
しかし、それは
創造の最初からあったことではない。
そのため、
神様は重要な命令を
人間に与えられたのである。
それは、
自分が生きるために
他の命を取ってはならない、
ということである。
人間に
その肉を食べられる動物などは、
実際、結果的には
人間に命を取られることになるが、
それでも、神様は
命である血液を
じゅうぶんに流しきって
「単なる物質的な肉」にしてから
食べるように命じられた。
その理由は、
人間が自分が生きるために
結果的には
他の生き物の命を
取るようなことになったことを通して、
同じように
自分が生きるために
他の人間の命を
取るということを肯定しないように
するためなのである。
そのため、前回にも書いたが、
血のあるままで食べてはならない、
という命令に続いて、
人を殺してはならない
という御言葉を
語られたのである。
このことを知らずに
「人間は、生きるために
他の命を取らねばならない」
という目に見える現実から、
その取らねばならない命の範囲を、
動物などから他の人間にまで広げてしまい、
自分が生きるに当たって
不都合に思える人を殺す、
ということが後を絶たないのである。
いじめや対人関係のトラブルも
みな、このことを知らないために
起こることであり、
神様の前では殺人に等しいのである。
thisisthehour624 at 12:50|Permalink