2021年05月

2021年05月25日

懺悔文の意味


「懺悔文(さんげもん)」という

経典の一節がある。
『華厳経』(けごんきょう)の
一節であるが、
宗派を問わず、用いられている。


意味は
一見すると、
過去の悪い行ないなどを懺悔して、
心新たに修行に励みます、
と読むことができる。 



全文は以下の通り。

我昔所造諸悪業

(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡
(かいゆうむしとんじんち)
従身語意之所生
(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔
(いっさいがこんかいさんげ)

これで思い出すのが、
比叡山で修行していた時のことである。
夜が明けたばかりの
まだ薄暗い中、夏とはいえ
張り詰めたような冷たい空気が漂う
西塔(さいとう)の釈迦堂の前。
これから止観(しかん=座禅)を
するための入堂前に
この「懺悔文」を唱えるのである。


こんな場面は、
なかなか、映画のワンシーンにでも
なりそうな「厳粛」な雰囲気が
あるのであろうが、
しかし毎回、私の心は冷めていた。


「こんな経文を唱えただけで、
過去がチャラになるなら
誰も苦労はしない‥‥」


あれ以来、
この「懺悔文」には
見向きもしなかった。


しかし今回、ふとしたことから
この「懺悔文」を見て、
このところ悟ったことなどと相まって、
この経文は、ものすごく
奥深いことを語っていることに
気づいたのである。


ひとつひとつ見ていくと、
まず「我昔所造諸悪業」とあるが、
これは、自分が過去に
さまざまな悪業を積み重ねてきた
ということの告白である。
「業」であるから、
今の一生に限らず、
アダムとエバの時から始まり、
ノアの時の洪水を経た、
魂(たましい)としての自分を
省みているのである。


次に「皆由無始貪瞋癡」であるが、
その業はみな、
貪(とん・むさぼり)
瞋(じん・怒り)
癡(ち・真理を知らないこと)

から来ている、という告白である。
これはみな、
自分というものが
絶対的存在だという認識から生じる。
神様だけが絶対的存在である。
人間、つまり各人の魂は、
相対的な存在であり、
実体がない。
この真理を知らないために、
自分中心に物事を貪り、
自分に少しでも害となるものには
怒りを発するのである。

次は「従身語意之所生」であるが、
それらの悪業は、誰のせいでもなく、
この自分自身から出たものだ、
ということを認める。
これは救いの基礎である。
そこに少しでも言い訳や
他のせいにする心があるなら、
絶対に救いは来ない。


最後は「一切我今皆懺悔」であるが、
ここで重要なことは、
「今」ということである。
救いは、方向転換である。
今まで、ひたすら、
業を積み重ねて来た
魂の道の方向を
百八十度方向転換して、
これからは、その業を
消滅させていく方向に
進むということである。
そしてその進む先には、
絶対的な神様の御国がある。
また、その方向転換は、
一生に一度である。
一度方向転換したならば、
二度と方向転換する必要はない。
その方向転換が、「今」であり、
救いの時なのである。
もし、そのようにして
方向転換した者が
またこの「懺悔文」を
唱えるならば、
それは「救いの確認」
ということになる。


ここにきて、
私が悟った真理をもって、
過去に唱えていた経文などを読むと、
そこにも驚くべき宝石を
見出すのである。


thisisthehour624 at 13:39|Permalink

2021年05月23日

宗教と医学の融合

正しい宗教ならば、
医学と融合するはずである。

「熱心な」信者が、
「この病は祈りによって治す。
薬もいらない」などと
言っているのを
聞いたことがあるが、
それは大きな誤りである。

医学は肉体が専門分野であり、
宗教は魂が専門分野であり、
互いにぶつかることはない。

人間は魂である。
その肉体は魂の道具である。 

腕のいい職人が
道具を大切にするように、
魂は肉体を大切にすべきである。
そのため、大いに医学に
委ねる時は委ねるのである。

thisisthehour624 at 10:03|Permalink

2021年05月18日

命をいただいているわけではない

前回の
「血のあるままで食べてはならない」の
続きである。

よく、
「私たちは、
他の動物などの肉を食べています。
つまり、
他の命をいただいているのです。
感謝しましょう」
などと、もっともらしく
言われているが、
とんでもない間違いである。

動物などに感謝するのは良い。
しかし、
人間が他の命を食べることは、
神様はお許しになってはいない。

ノアの時の洪水以降、
地から生える植物は
ますますその栄養価を失い
(エデンの園では植物だけで
生きていけたことを参照)
もはや、動物の肉を食べなければ、
人間は生きていけなくなった。

しかし、それは
創造の最初からあったことではない。
そのため、
神様は重要な命令を
人間に与えられたのである。

それは、
自分が生きるために
他の命を取ってはならない、
ということである。

人間に
その肉を食べられる動物などは、
実際、結果的には
人間に命を取られることになるが、
それでも、神様は
命である血液を
じゅうぶんに流しきって
「単なる物質的な肉」にしてから
食べるように命じられた。

その理由は、
人間が自分が生きるために
結果的には
他の生き物の命を
取るようなことになったことを通して、
同じように
自分が生きるために
他の人間の命を
取るということを肯定しないように
するためなのである。

そのため、前回にも書いたが、
血のあるままで食べてはならない、
という命令に続いて、
人を殺してはならない
という御言葉を
語られたのである。

このことを知らずに
「人間は、生きるために
他の命を取らねばならない」
という目に見える現実から、
その取らねばならない命の範囲を、
動物などから他の人間にまで広げてしまい、
自分が生きるに当たって
不都合に思える人を殺す、
ということが後を絶たないのである。

いじめや対人関係のトラブルも
みな、このことを知らないために
起こることであり、
神様の前では殺人に等しいのである。


thisisthehour624 at 12:50|Permalink

2021年05月16日

血のあるままで食べてはならない

「しかし、肉は、
そのいのちである血のあるままで
食べてはならない」
(『創世記』9章4節)

身体は母親の胎内ですべて完成される。
生まれてからの成長は、
その各細胞が細胞分裂をして
増えていくだけである。

そして、そのような生命活動は、
血の循環によって行なわれる。
血がなかったら、
細胞分裂もなく
生命活動そのものもない。

つまり、血=命なのである。
血のあるままで食べる、
ということは、すなわち、
動物の肉ではなく、
その命を食べることなのである。

神様は、人間が動物の肉を
食べることは許されたが、
動物であっても
命を食べることは
許されなかった。

このことは、
人間の命と
その肉体との関係を
教えているのである。

生きている人間の肉体には
魂が宿っているが、
肉体が死んだら
魂は肉体を離れる。
その魂がまだ宿っているか
すでに離れているかは、
血が循環しているかいないかで
明らかになる。
つまり、血のある状態とは
まだその肉体が生きている、
ということなのである。

したがって
血のあるままで食べてはならない
ということは、
動物の肉を食べる、
ということを通して、
神様がお造りになった魂を
何人であっても
損ねてはならない、 
つまり、
人を殺してはならない、
ということを表わしているのである。

その証拠に
この御言葉に続く
5節と6節には
文字通り、
人を殺してはならない、
という内容であり、
食べ物の内容でなくなっている。

このことを知らずに、表面的に
血のままで食べない、
ということを守っても
意味がないのである。


(注:
では、脳死状態はどうか、
ということであるが、
脳死とは、
現代医学の力で
人為的に血の循環を
保たせている状態のことであり、
自然の状態で脳死になれば、
間もなく血の循環も
なくなるのであるから、
聖書解釈においては
考える必要はない。)

thisisthehour624 at 13:28|Permalink