2021年06月

2021年06月16日

絶対ということ

神様は絶対者である。
神様だけが実在者である。

このようなことを言うと、
「では、他の宗教の神々とか、
仏様とか菩薩とか、
みんな嘘だ、
誤りの神だと言うのですね」
などと言われそうである。

しかし、そのように思ったり
言ったりすること自体、
「絶対」ということを
知らない証拠である。

絶対は絶対である。
つまり、相対するものがない、
ということである。
自分の信じる神様だけが真実であり、
その他の信仰の対象となるものは
嘘だ、偽りだとすることは、
そもそも、その「神様」と
「他の信仰の対象」とを相対させ、
比較していることであり、
そうすること自体が、
神様は絶対だということを
否定していることなのである。

神様は絶対だ、とすることは、
むしろ、他のすべてを認めることであり、
受け入れることなのだ。

私はこのことを悟ったが、
今までこのようなことは
一度も聞いたことがない。

このようなことを知ってさえすれば、
正しい宗教同士の摩擦や争いなど
起こり得ないのである。



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2021年06月15日

どんなに苦しまねばならないか

「しかし、主はこう言われた。
「行きなさい。
あの人はわたしの名を、
異邦人、王たち、
イスラエルの子孫の前に運ぶ、
わたしの選びの器です。
彼がわたしの名のために、
どんなに苦しまなければならないかを、
わたしは彼に示すつもりです。」
(『使徒の働き』9章15節〜16節)


パウロ(サウロ)が
天からの光によって倒され、
3日間、目も見えなくなった時、
神様はアナニヤという人を
彼に遣わしたが、
その時、神様はアナニヤに
上に引用したように語られた。


しかし、普通に考えれば、
「イエス・キリストを信じることは、
どれくらい幸いなことなのか、
わたしは彼に示すつもりです」
というような御言葉が
語れるはずであろう。


ところが、
神様はまるで真逆な内容、
すなわち、
わたしの名のために、
どんなに苦しまなければならないか」

と語られた。


これはあんまりではないか。


確かに、パウロはこの後、
福音のために、
尋常ではない苦しみの中を
歩むこととなる。
彼自身、
「何というひどい迫害に
私は耐えて来たことでしょう」
(『Ⅱテモテ」3章11節)
と言っているほどである。


しかし、それでも
パウロは
救われたことに対して、
後悔するようなことは
一言も語っておらず、
もちろん、
そのようなことを
微塵も考えなかったことは
明らかである。


これは次元の違いである。


救われた喜びと祝福は、
この世のどのようなことによっても、
絶対に揺り動かされることはない。


もし、救われたことを
少しでも後悔する人がいるなら、
その人は本当には救われていないのだ。
これは間違いない。


神様は、パウロに
これから彼に起こることを
単に伝えようとされたに過ぎない。
それは、彼の救いには、
全く影響を与えないことなのだ。


救いとは、
そのようなものである。



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