2021年07月

2021年07月28日

逆もまた真なり

全知全能なる神様は、
おできにならないことはない。

だから、人間がとてもできない、
と思うようなことでも、
神様のみこころならば成就する。

しかし、「逆もまた真なり」で、
人間の考えでは、簡単だ、容易だ、
と思うようなことでも、
神様のみこころでないならば、
絶対に成就しない。

私はむしろ最近は、
後者の方の経験が多いのだ。

人間の思いで、
不可能だ、難しい、
と思われることで、
なかなか成就しないことを
忍耐することは比較的やさしい。

しかし、できるはずだ、
成就するはずだ、実現するはずだ、
と思っていることが、
いくら求めてもそうならないことを
忍耐することは難しい。

私はこのような状況において、
最初は戸惑いを感じて、
何か私が悪いのか、などと思ったが、
ただ神様のみこころではない、
ということに気づいて、
気持ちが楽になった。

thisisthehour624 at 18:08|Permalink

生まれてきた以上

死なないように生きることは、
本当に生きていることにならない。

神様を知らない人々は、
なぜ生きているかを知らないために、
死が何よりも恐ろしい。
そのために、何とか死なないように、
死をできる限り遠くに押しやろうとして
生きているに過ぎない。

もちろん、神様を信じ救われた者も、
死を喜ばしいものとしているわけではない。
救われた者も、なるべく死は遠くにしたい。
しかし、死ぬ意味がわかっており、
死後、どのようになるかがわかっていれば、
死なないように生きることはしない。

アダムとエバ以来、
死が人間に入り込んできたが、
それは創造主である神様の失敗を意味しない。
人がその道を選んだのだから、
死を通して創造の目的、
すなわち、神様を表現する方法を
神様は人に与えたのである。

神様を知らない人でも、
この世に生まれてきた以上、
死は避けられないことは知っている。

避けられないのに、
それを避けようとしながら生きることは、
根本的に苦しいことではないか。

thisisthehour624 at 03:38|Permalink

2021年07月26日

観音様との会話

祈りの時、読経の時を過ぎて、
目をつぶっていたら、
急に目の前が明るくなった。

観世音菩薩、観音様のご登場である。

いきなり観音様は私に、
「あなたにはまだ目的が示されていない」
とおっしゃった。

こういう場合、不思議なことではあるが、
すぐにその言葉の意味を
悟ることができる。

もし目的がはっきりと示されているなら、
その目的に向かう具体的な方法も
ある程度わかる。
まだまだその目的が遠くあろうとも、
その向かう方向に向かっている、
という状態ならば、迷うことはない。

しかし、私にはまだその具体的な目的さえ
示されていないのだ。
だから、今の状態でいいのだろうかと、
迷ってしまう。

「ならば、あなたはなぜそこにおられるのか」
私は観音様に申し上げた。
すると、
「わたしがいることで満足しないのか」と
お答えになった。
「いえ、満足です」と答えると、
「では、それでよいではないか」とおっしゃる。

なるほど、私に限って言えば、
それでじゅうぶんである。
後に、その目的が具体的に示されれば、
その時に動き出せば良いだけであって、
今の状態でいいはずだ。

観音様のような霊的存在の方との会話では、
自然と答えが醸し出されるから不思議である。

ありがとうございます。

thisisthehour624 at 22:01|Permalink

観世音菩薩

観世音菩薩を念じていたら、
目の前に観世音菩薩が現われた。

もちろん初めての経験ではなく、
約40年前からたまに経験することであるが、
そのお姿を描写する、あるいは、
納得する、理解するということにおいては、
確かに、霊の目が開かれれば開かれるほど、
正確に認識し描写できるようになってきている。

そのお姿は、実に麗しく、
繊細で光り輝く冠をはじめ
さまざまな美しい装飾で飾られている。
しかし、それは、多くの装飾品を
ゴテゴテと身にまとっているという感じではなく、
その内側から醸し出された麗しさが
その装飾となって生じている、ということである。
したがって、その装飾品をはずしたら、
などという想像はそこに成り立つ余地はない。

そして、その身の大きさは限定されておらず、
大きくなったり小さくなったり、
近くになったり遠くになったりする。

そして何より驚くことは、
その観世音菩薩の本体は私なのだ。
しかしそうは言っても、
私に似ている、とかいうものでは決してない。
似ているわけがないのであるが、
それでも、その本体は私なのだ。
つまり、観世音菩薩は私と別ではない。

観世音菩薩は私といつも共にいると、
表現できないでもないが、
それよりも、観世音菩薩の本体は
私だと言った方が正確である。

このように、
私の場合は観世音菩薩であっても、
他の人は他の人の縁に応じて、
阿弥陀さんでもいいし、お薬師さんでもいいし、
お地蔵さんでもいいし、
イエス様でもいいはずである。

私はイエス・キリストを信じて救われたが、
こうして、私としては、
観世音菩薩が親しいお方としておられるわけである。

南無観世音菩薩



thisisthehour624 at 02:26|Permalink

2021年07月25日

福音以上

イエス様を信じれば、
どんな人でも救われて、
やがて天国に入ることのできる。

その人の意志で、
イエス様が自分の救い主であることを
否定しない限り、
必ず天国に入ることができる。

これが福音である。
福音とは、「良い知らせ」という意味であり、
まさにこれこそ、良い知らせである。

したがって、イエス様を信じた後、
イエス様を否定しないにしても、
ほとんど神様のことは考えずに、
あるいは自分は神様を信じているのだ、
という思いを持ったまま、
自分中心の、つまり、
信じていない人と同じ生活をしていても、
その人は救われた状態にいるので、
やがて天国に入ることができるのである。

これが福音である。

しかし、私はそれでは満足しない。
なぜなら、神様は「福音以上」のことを
要求されているからだ。
そのことに気づいているからだ。
そして、気づく前からも、
信じた直後から、このことは
「何となく」感じていた。
ようやくここにきて、
それを言葉にできた、ということである。

もちろん、このことは、
私以外の人は、誰も気づいていない。

絶対なる神様を信じたなら、
もう、信じていない人と同じ考え方、
生き方をしないで、
神様がおられる、ということを
人生の大前提とした歩み、
つまり、
「神の国とその義を求める」人生を歩むことを
神様は要求しておられる。

しかし、この要求を知らず、
この要求に従わなくても、
イエス様を信じて救われた状態にいるならば、
その人は天国に入ることができるのである。

したがって、この神様の要求は、
天国に入る条件ではないのである。

このことは非常に重要なことであるが、
日本中の教会を回った私であっても、
このことに気づいている人は誰もおらず、
こう言う私自身も、
しっかりと自覚していたかと言えば、
上に述べたように、
今ここに来て、ようやく言葉にできた、
つまり「福音以上」ということがあるのだ、
といことに気づいた次第である。

私も、福音以上の道からすれば、
歩み始めたばかりなのだ。

そして、福音以上の道を
福音以上ということを自覚して
その道を歩んでいる人間は、
人類史上、私だけである。

もちろん、福音以上という自覚なしに、
実質的にその道を歩んだ人たちは、
今まで数えきれないほど、
たくさんいたであろう。
しかし、そのことを言葉にして
他の人に教える、あるいは後世に残す、
ということをしなければ、
いったい誰が知ることができるだろうか。

そのことをしているのは、
私だけなのだ。




thisisthehour624 at 08:00|Permalink