2022年01月

2022年01月07日

たまたまではないしるし

「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。
だが預言者ヨナ
のしるしのほかには、
しるしは与えられません。
ヨナ
は三日三晩大魚の腹の中にいましたが、
同様に、人の子も三日三晩、
地の中にいるからです」。
(『マタイ』12:39~40)

「そこで、彼らは出て行って、
至る所で福音を宣べ伝えた。
主は彼らとともに働き、
みことばに伴うしるし
をもって、
みことばを確かなものとされた」。
(『マルコ』16:20)

イエス様は、
一方では「しるしは与えられません」
とおっしゃりながら、
一方では、イエス様はしるしをもって、
みことばを確かなものとされた、とある。

表面的に見れば、
これは明らかに矛盾である。
しかし、もちろん矛盾ではない。
その「しるし」自体が違うのだ。

イエス様は、「ヨナのしるし」と
おっしゃっているのである。
それは、言うまでもなく、
十字架の贖いのことである。

信じる者は、
よく神様のしるしを体験する。
しかし、
それを信じていない人に言ったとしても、
ほとんどの場合、
「いやそれはたまたまでしょう」
という言葉を返される。
そこまで言わなくても、
そう思っているはずである。

いや、信じる者でさえ、
「奇跡、しるしと思うんだけど、
もしかしたら、たまたまかな」、
などと思ってしまうことが多い。

しかし、唯一、
「たまたまでしょう」と
言い返されないしるしがある。
それが、イエス様の十字架の贖いである。

「神の御子イエス様は私の救いのために、
この世に来られ、十字架にかかられ、
三日後によみがえり、天に昇られました」
ということに対して、
「いやそれはたまたまでしょう」
などと言い返されるわけがない。

それを事実として受け入れるか、
馬鹿な話だ、と拒否されるか、
ただ、その二つに一つである。


thisisthehour624 at 05:44|Permalink

2022年01月03日

現われるか現れないか

神様や仏様がいるのなら、
それを見せてほしい、
見たら信じるから。
という人が大半だ。 

しかし、神様や仏様などは、
見つけ出すものではなく、
「現われる」ものなのだ。

真実を求める真摯な者に
神様、仏様、そして
イエス様は現われる。

また、
お釈迦様やイエス様が、
歴史的人物だった、
ということは、
重要なことではない。

あちらから、
この世に来られた、
この世に生まれた、
ということが重要なのである。

同じように、
観音様、お薬師様をはじめ、
八百万の神、鎮守様にいたるまで、
本当にそのような存在はいるのか、
などと考えることは意味がない。

現われるか、現れないかが
すべてである。




thisisthehour624 at 17:54|Permalink

年頭において思う

私が人にどう思われようがかまわない。

ただ、私を通して、
神様が何かをこの世に残してくだされば、
それでじゅうぶんである。

私が死んだら、
ただ数人の人々の記憶の中に
私についての記憶が残るのみであり、
やがてその人々も死んで、
完全に私の記憶さえこの世から消滅するという、
大半の人々のような人生は、
私は絶対に歩みたくない。


thisisthehour624 at 13:11|Permalink